昇任認めないでポストガラ空きよりどりみどり…
公立大学の事務官僚が、これまでは主に教員らによる「大学自治」の領域であるとされてきた大学の”管理・運営”に乗り出すことを理論化・正当化する”公立大改革”論。その実質的なイデオローグとなっている人々のトレンドとも言うべき動きがあるということについて、2003年9月の時点でちょこっと触れたことがある(http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=327670&log=20030912)。そこで予知しておいた、「大学自治は素人によるもの。これからはプロの職員に任せるべき」という主張がその後実際に登場し始めている。そのままとはな。
その理論とは、「大学自治の原則」つまり教員が学長・理事長職等の管理職となる形態は、地方公務員が一時的に非専門分野である大学事務職に就いている状態と、兼業的であるという点で変わらないのだ、という大学自治批判の主張である。
つまり、教員が就任する大学の運営職も、実は数年の任期しか持たない一時的なものであり、さらに教員には研究・教育活動もあることから、大学運営に対する力の入れようも教員本来の業務との兼業状態になっていると、事務職員の場合と等価値的に述べ批判するのである。
さらに、これからの時代には、大学としての全体的な”戦略”を専門的(専任的)に考えることのできる人材が大学に必要であると説く。また従来の事務職員と大学教員とのいびつな関係を指摘し、非専門家である事務職員は教員に対して制度的に強い態度を取ることができず、これまでの公立大学では、大学全体の方向性について考える者がいなかったと主張する。
これらの主張の中には長年に渡り、学長職や理事長職など大学の主要な管理ポストを大学教員に独占されてきた、地方公務員としてのプライドと怨念が見え隠れする。市大の場合、俺に言わせれば事務職員は虐げられた人々などではなく、”改革”以前から学内規制や財政などの方面では教授会は既に名目的な存在であり、学内の諸々は実質的に事務職員らが案を出し取り仕切っていたとさえいえるのだが、やはり名目上のポストさえも手中に収めなければ気がすまないということらしい。
このような”官僚の不満”をお上品に、そして”論理的”に述べたのがこれらの”公立大改革”論であるとするならば、官僚の不満や怨みをストレートかつ包み隠さずに語ってしまったのが某”理事殿”の内部文書だったと言えるだろう。
両者はともに表裏一体の関係にある。
その理論とは、「大学自治の原則」つまり教員が学長・理事長職等の管理職となる形態は、地方公務員が一時的に非専門分野である大学事務職に就いている状態と、兼業的であるという点で変わらないのだ、という大学自治批判の主張である。
つまり、教員が就任する大学の運営職も、実は数年の任期しか持たない一時的なものであり、さらに教員には研究・教育活動もあることから、大学運営に対する力の入れようも教員本来の業務との兼業状態になっていると、事務職員の場合と等価値的に述べ批判するのである。
さらに、これからの時代には、大学としての全体的な”戦略”を専門的(専任的)に考えることのできる人材が大学に必要であると説く。また従来の事務職員と大学教員とのいびつな関係を指摘し、非専門家である事務職員は教員に対して制度的に強い態度を取ることができず、これまでの公立大学では、大学全体の方向性について考える者がいなかったと主張する。
これらの主張の中には長年に渡り、学長職や理事長職など大学の主要な管理ポストを大学教員に独占されてきた、地方公務員としてのプライドと怨念が見え隠れする。市大の場合、俺に言わせれば事務職員は虐げられた人々などではなく、”改革”以前から学内規制や財政などの方面では教授会は既に名目的な存在であり、学内の諸々は実質的に事務職員らが案を出し取り仕切っていたとさえいえるのだが、やはり名目上のポストさえも手中に収めなければ気がすまないということらしい。
このような”官僚の不満”をお上品に、そして”論理的”に述べたのがこれらの”公立大改革”論であるとするならば、官僚の不満や怨みをストレートかつ包み隠さずに語ってしまったのが某”理事殿”の内部文書だったと言えるだろう。
両者はともに表裏一体の関係にある。